待ってくれている人

仕事からの帰り、いつもの地下駐輪場から自転車を押し地上に上がると、上がった途端に
「パパ!おかえり」と10m程先の方から声がした。
それはあきらかに私の娘であるとわかるが、聞こえてきた声は娘のそれではない。

声の持ち主がわからない感覚があったため、少し戸惑っているともう一度、
「パパおかえり〜!」と言いながらその子は私の近くへ寄ってきた。

その存在は紛れもなく私の娘であり、私の仕事が終わるまでそこで待っていてくれたことに感動して私は心から嬉しくなる。

「パパを待っててくれてたのか〜!」と思わず嬉しくなって言うと、その子は私にハグをしてくれた。

それは本当に心が落ち着き癒されるハグであった。
しかしその感覚の中には私の妹を抱いた感覚も蘇ってきていた。

・・・それは40年以上前の実体験。
その日の午後、急に空が暗くなり局地的に大粒の雹が降った。外に止めてある車は凹みを無数に受け、地域一帯の家々のガラスは割れた。雹が降ったのは一瞬の出来事で降り終わった後は快晴になり道端には雹が山積し洪水が流れた。

子供部屋のある実家の二階には私と妹が居た。私は確か中学生で妹は小学3年か4年生くらいだったろう。急激に激しく降ってきた大粒の雹は私の部屋の小さな窓を叩き割った。爆発音と共に割れたガラスの破片は私の部屋に花火のように飛び散った。まだ幼い妹は泣き叫びながら私めがけて飛んで来た。部屋の隅に居た私はとっさに妹を両手で掴んだのだった・・・。

夢の中の娘と出会ったその場所は、広くて白っぽい公園のような場所だった。殺伐としていながらもなんだか落ち着くような雰囲気のある広い場所。そこには私の娘と妻、娘の友達とその子の母親が居てみんなで遊んでいたようだ。

私の帰りを待ちわびていたとか、ずっと待っていて退屈だったとか、そのような雰囲気では無かったようだ。ただただ私が帰ってきたことをその娘は喜んでくれた。

この夢は私が人生を終えた時に迎えに来てくれる魂との出会い、再会を示唆しているように感じた。

そしてその娘の声は聞いたことのない声だったことから、私の妻が最初に流産した時に入るはずだった魂だったのかも・・・と意識した途端に全身に鳥肌が立った。

鳥肌が立つ現象は私にとって「大きなイエス」というサインでもある。
宿るかもしれなかった魂が夢に現れて私を迎えてくれた。流産によって出会うことのなかった魂は私の帰りを待っていてくれているのだと思うと、この世から帰ることの楽しみが一つ確約されることになる体験となった。

その世界での時間の概念は地上とは異なる感覚が、この夢を見て少しわかった気がする。

例えば時計の針が進むのを拡大して解釈した場合、1秒経過する度にその前の1秒はすでに過去になる。当たり前の話ではあるが常に今という時点はその過去から見たら未来であり、未来から見たら現在は常に過去である。

「待つ」という行為は意識の持ち方でポジティブにもネガティブにも捉えられる。急に30分待たなければならない機会が訪れたときに、意味のない30分と捉えるか、有意義な30分にするかは自分次第である。

時空の流れの中に住まう意識というものは我々人間が創り出すものであって、創り出す行為がエネルギーとなり、体験となり、現実を生み出し、生きることそのものなのだ。

いわば時間とはエネルギーが入るための箱なのである。その箱に何を入れるのかは人間の自由なのである。

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